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2015315日、日語部宣教:「光と闇と愛」ヨハネ3:14-21

 

 神学校在学中のインターンシップとして、パートタイムのチャプレンをしていた頃のある日、

 危篤状態で両親と共にICU 運び込まれた赤子と両親のために祈りたいとの私の申し出は、父親から「ノー・サンキュー」と、はっきり拒絶されました。

 その日の午後のスーパー・バイザーへの報告の時、「拒絶されたことで、自分の役割が否定されたと感じたのか」との問いかけに、「あの様な危機的な状況で、 だれにも立ち入って欲しくないとの反応は当然でしょう。私の心に引っかかっているのは、あの何もできないという絶望感です」と答えた私の心の中に、突然その時から30年以上も前の出来事が浮かんで来ました。

 それは、私たち夫婦に与えられた最初の子供であった信幸のことです。早産の未熟児として、当時の医学では何もできずただ体重を失い続けて三日目でこの世の 命を終えたのです。父が持ってきてくれた産衣の半分にも満たない小さな体をお棺に入れ、蓋の上から葬りの儀式の釘を打ち込んだあの時の「何もできない」絶 望感が、その朝のICUでの父親の姿に重なったのです。

 更にこの時、わたしの心の奥底に秘められていた「信幸は私が殺した」との思いが浮かび上がって来ました。若くして結婚した私はまだ父親となる意識がなく、最初は家内の妊娠を喜んでいなかったからです。忘れ去ったつもりの罪の傷痕は心の奥底に潜み、30年以上もたってから血が流れ出したのです。神学校のアドバイザーやクラスメイトたちは、「もうその若者のことは許して上げなさい」とアドバイスしてくれました。しかし、どう考えても自分で自分の罪を許すことはできません。

 今日の聖書の最初の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」とは、旧約聖書に記されているモーセがイスラエルの民の命を救うために旗竿の先に青銅の蛇を掲げ たという出来事(民数記21:4-9)が、キリスト・イエスの十字架の救いを指し示す預言的な意味を持っていたことを表しています。

 ローマ市民権を持つ者には決して用いられず、反逆者を人々への見せしめとして殺す残忍な十字架の処刑は、多くの人々にとって、できれば目をそらして避けて 通りたい恥と嫌悪に満ちたむごたらしい刑罰でした。その十字架上のイエスさまを敢えて見上げる時、私たちの目に写るのは、この私が犯した全ての罪の悩み、 恥じ、痛み、苦しみを背負い、本来私が受けるべき裁きを受けて苦しみうめいておられるイエスさまのむごたらしい姿です。 「わが神、わが神、どうしてわた しをお見捨てになったのですか」との絶叫は、私が受けなければならない罪の裁きを受けて父なる神との断絶という耐え難い苦しみを通られたイエス様が、私に 代わって叫ばれた叫びなのです。

 この世界の中で最も暗い、暗黒の暗闇は私たち人間の心の中です。その心の中に光が差し込み、隅々まで照らし出すことを恐れなくてよい人間がいるでしょうか?(ローマ3.10b-12)

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3.17) と のみ言葉は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためであ る。」とのイエスさまの言葉に連なります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3.19) と記されているように、光そのものは闇を明らかにしますが救いをもたらすことはできません。

 「神は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (3.16) 「永遠」というのは、時間の長さを表す言葉ではありません。限られた時間をいくら積み重ねても永遠にはなりません、永遠には始まりもなく、 終わりもありません。永遠とは存在の意味と価値を表す言葉です。

 唯一、永遠という言葉に値する存在は神だけです。従って「御子を信じて永遠の命を得る」ということは、キリスト・イエスの救いを信じる信仰によって神に属する者となり、永遠に失われることのない意味と価値のある自分らしい生き方を与えられるということになります。

 「神 は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたし たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨ ハネ4.9-10)

 

2015年3月1日、日語部宣教:「決して死なない者」マルコ8.31-9.1

 

イエスさまが弟子たちに、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると教え始められた時、どうとでも受け取れるような曖昧な話し方ではなく、「はっきりとお話になった」と書かれています。

ペトロはイエスさまを脇へ引き寄せて、「そんな事を公に口にされては、人々を恐れさすことになり私たちも困ります。第一、生ける神の子、キリストであるあなたにそんな事が起る筈はありません」といった口調で強く抗議し、そのような発言をやめさせようとしたのでしょう。

 この気持ちは、ペトロだけではなく他の弟子たちも同様でした。ある者はイエスさまにローマ帝国からのイスラエル解放運動の指導者の姿を期待し、ある者はイエスさまを王とする神の国が実現する時、その左右に連なる高い地位に就くことを夢見ていました。(マタイ20:20-24) 彼等はどこへでも従って行くと言いながら、心の中ではそれぞれにイエスさまに行ってほしい方向を描いていたのであり、何よりもイエスさまに急に死なれては困ったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と大変な剣幕で叱りつけられたペトロは、この時のことを生涯忘れることがなかったでしょう。人はだれでも誉め言葉を喜んで聞きますが、すぐに忘れてしまいます。しかし、本気で自分をしかってくれた人のことはいつまでも心に残るものです。

イエスさまが群衆を弟子たちと共に呼び寄せ、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と語られたとき、人々は十字架刑の判決を受けた罪人が自分の架けられる十字架を背負って街中を引き回される屈辱と恥を思い浮かべた事でしょう。「自分を捨て」とは、自分中心の生きかたを捨てなさいという意味でしょう。

我々人間の生き方は、神中心か、又は人間つまり、自分中心に生きるかの二つに一つです。自分中心の生き方と言うのは、多くの場合、神の愛を知らない生き方です。神がわたしたち一人一人に命を与え、かけがえのない存在として愛し、目的をもって一日一日を生かしてくださっていることを知らない生き方です。

私たちが生きているのは、毎日頑張っているから生きているのではなく、生かされているから生きているのであり、「自分を捨てなさい」とは、「重荷を下ろしなさい」という招きの言葉なのです。イエスさまは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と約束して下さったのです。

それでは、「自分の十字架を背負って」とは、どう言う意味でしょう?私たちは、この世に生かされている間、それぞれに自分の悩みや苦しみを抱えて生きています。それは人に代わってもらうことのできない、自分の負うべき十字架です。しかし、幸いなことに私たちがイエスさまに従って生きて行く時に私たちは自分の十字架の重みに押しつぶされることは決してないのです。なぜなら、イエスさまがその十字架を共に負うて下さるからです。 (ヨハネ16:33)。

事故によって首から下の体の機能を全て失い、自殺したいとの絶望の日々からイエスの福音によって救われ、口でくわえた筆で素晴らしい絵と詩を生み出し続けている星野富弘さんの作品に、「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」という詩があります。

イエスさまの弟子たちにとって、ローマの市民権をもたない奴隷や身分の低い犯罪人を処刑するための残忍な十字架に架けられ、苦しみもだえながら死ぬことは、のろいであり、屈辱であり、恥であったでしょう。イエスさまが十字架に架けられた時、ペテロも含めて全ての弟子たちが失望し、死を恐れて逃げ去ったのは当然のことでした。

しかし、その弟子たちが、復活されたイエスさまに出会い、死の力が打ち破られたことを知り、聖霊によって死んでも死なない永遠の命が与えられた事を信じ受け入れた時、彼らは生まれ変わりました。「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者」として十字架の言葉を携え、世界に送り出されて行ったのです。

使徒パウロは、記しています:「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」 (1コリント1.18、22-25)